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今日は、宇和島の旧町名「樽屋町」の名称碑です。
子供の頃は、愛宕町に住んでましたのでこの辺りも行動範囲でした。
昔ちょうどこの辺りにお店の名前は忘れましたが、小さな「たこ焼き屋さん」がありました。
元禄頃の記録では木挽町とありますが、後に樽屋が多く居住したので樽屋町と改称されたといわれています。
藩政時代鋸町にも 木挽職人が、多かったという記録が残っているようですが、ここ樽屋町にも木挽職人が多く居たという事なんでしょうかね?
そして小字の風呂屋横丁は、通称として現在も残っているそうですが、小字ってどこや?
この辺りで風呂屋と言えば 「中山温泉」しかイメージ出来ないのですが、風呂屋横丁ってどこを指すのでしょうか?
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ちょうど正面の駐車場に小川商店(お菓子屋さん)が、ありました。
そしてその右隣りに細い通路を通った奥に「そろばん塾」があり小学生の頃通っていました。
小川商店の前の角には、都築鮮魚店がありました。
今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島旧町名 樽屋町」のお話でした。
[宇和島市「樽屋町」名称碑設置場所地図 Simple Map]
愛媛県宇和島市愛宕町3丁目1-18
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おばあさんのたこ焼きやさんが、ありましたね、山下豆腐店、都築鮮魚店、
どうしてあの通りが広いかしってますか?
高橋真慈さんへ
あそこが、なぜ広いのか私も不思議に思っていました。
何かご存じですか?
わたしが聞いたのは戦争の時に前、1列のけたらしいです。村上さんの同級生もあの通りに3人いたはず。
高橋真慈さんへ
そういう理由でしたか。
こちら昭和6年頃の地図のようですけど これを見ても今の様に道路は、広く描かれて無いですね。
あれだけの広さが有れば 地図も道路を広く描いているでしょうから。
//tack7.fc2web.com/S-06/04s6-05.jpg
この地図からすると西村理容店側の一列を除けたのでしょかね。
たぶんそうだと思います。都築の魚屋の角に大きな柳の木があったから、のけたのは西村側かも西村のおじさんなら知ってるはずです。
高橋真慈さんへ
さっき西村さんにお聞きしたら やはり建物疎開で西村さんの家も90円で提供したと話されていました。
そういえば都築の魚屋の角に大きな柳の木ありましたね。(^^)
それにしても高橋さんよく覚えておられる。
私の縄張りです(笑)西村から観音橋に行く道の若松屋洗濯店の前に紙芝居がきてましたよ!黄金バットとか見てました。
高橋真慈さんへ
私は、紙芝居屋さんの紙芝居を見たという記憶がないですね(^^;)
木挽き職人は1日に一升の飯を食べる! と言うくらいの重労働だったらしいですねェ。
どんな大木でも手鋸とクサビを駆使し、今の帯鋸製材に勝る感覚で木を挽いていたそうです。
たとえば・・・その木材の素性を読んで乾燥した時に真っ直ぐな材になるように木の目・反り具合を予測し、ねじりながら木を挽き割いたそうです。
素晴らしい昔の知恵と技術に 『乾杯!』
・・・と言うことで 本日も晩酌しています。 ナンノコッチャ!
大工Aさんへ
昔の大工さんは、その木の性質知っていてその性質に合った場所にその木材を使っていたそうですね。
東向きに育った木は、その家の東側の材料として使うとか タイトル忘れたけど映画(安土城を建設する映画)でやってました。