伊達家墓所〜龍華山編2

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【1】まずは、西墓所からご紹介します。伊達墓所案内図

こちら西墓所には、宇和島初代藩主秀宗ひでむねの墓所があります。

【2】西墓所竜華山伊達墓所山門

ここ龍華山等覚寺りゅうげさん とうがくじは、禅宗ぜんしゅう臨済宗りんざいしゅう元和げんな4年(1618年)伊達家初代藩主秀宗ひでむねの母竜泉寺殿りゅうせんじでんを弔うために創建し白雲山竜泉寺はくうんざん りゅうせんじといっていましたが秀宗ひでむねの墓所となってからその法名を取って等覚寺とうがくじと改めました。西の墓所には、秀宗ひでむねと4人の殉死者の墓(県指定史跡)があります。

【3】竜華山伊達墓所山門アップ

【4】竜華山伊達墓

その他4代村年むらとしの墓(市指定史跡)そして東の墓所には、8代宗城むねなりと夫人の墓(県指定史跡)その他2代宗利むねとし、3代宗贇むねよし、6代村寿むらながらの墓(市指定史跡)があります。

【5】竜華山伊達墓所説明

伊達 村年だて むらとし宝永ほうえい2年1月16日(1705年2月9日)- 享保きょうほう20年5月28日(1735年7月18日)は、伊予宇和島藩の第4代藩主です。伊達 村年だて むらとしは、第3代藩主伊達宗贇だて むねよしの3男で母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)です。正室は仙台藩主で従兄弟にあたる伊達 吉村だて よしむらの娘・富子です。

【8】4代村年4代村年

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側室に松川氏ほか。子は伊達 村候だて むらとき(長男)、島内徳風(次男)、青木一貫(三男)、娘(柳沢信鴻正室)。官位は従四位下じゅしいげ、遠江守。幼名は伊勢松。伊織。初名は宗貞むねさだ貞清さだきよ。のちに義父の伊達吉村だて むらよしより偏諱へんきを賜って村年むらとしに改名しました。

【10】4代村年4代村年

兄の宗相むねすけ早世そうせいしたため、宝永ほうえい7年(1710年)4月2日に世子せいしに指名され、翌年の父の死去により跡を継いでいます。

藩政においては享保きょうほう13年(1728年)から享保きょうほう16年(1731年)にかけて風水害、享保きょうほう17年(1732年)に虫害などが起こって藩内は凶作・大飢饉だいききんが続き、藩財政は窮乏化きゅうぼうかしていました。このため、倹約令と有能な人材登用を主とした藩政改革を断行しようとしたが、享保きょうほう20年(1735年)5月28日、村年むらとしは参勤交代で帰国途上の播磨国加古川はりまのくにかこがわにて31歳の若さで急死し、成果が挙がらずに終わった様です。

跡を長男・村候むらときが継ぎました。

法号は泰雲院殿宗山紹沢大居士。

【9】4代村年4代村年

今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編2」のお話でした。

愛媛県宇和島市野川甲1157
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