左へ行けば5代伊達 村候の墓所で 右へ行けば9代生母の墓所になります。
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まずは、左の5代村候の墓所へ行ってみます。
伊達 村候(享保10年5月11日(1725年6月21日)- 寛政6年9月14日(1794年10月7日))は、伊予国宇和島藩の第5代藩主です。
第4代藩主・伊達村年の長男で享保8年(1723年)生まれとも言われています。
享保20年(1735年)、父伊達村年の死去により跡を継ぎ外祖父で仙台藩主の伊達吉村(寛保3年(1743年)に隠居)から偏諱を賜り村候と名乗ります。(偏諱とは、上位者が下位者に自分の名の一字を与える事です。)
寛延2年(1749年)、新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村は、村候が本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴えています。
村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」(”まっけ”ともいう)ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていたそうです。
具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政治を行う上での徳」「世を治め正す徳」の意味を込めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたとのことです。
宇和島藩5代藩主村候は、仙台の本家に対してライバル心が有ったようですね。
堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたあり 堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示しました。
表面的には、同年中に両伊達家は和解しますが、しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようです。
藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団25か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出しました。
宝暦4年(1754年)からは民政3か条を出して民政に尽力し、延享2年(1745年)からは専売制を実施しています。宝暦7年(1757年)12月には紙の専売制を実施し、寛延元年(1748年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建しました。
しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞しその煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次ぎ そのような中で失意のうちに、寛政6年(1794年)9月14日(異説として10月20日)に70歳で死去し、跡を四男・村寿が継いでいます。
法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士。
教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残ししていますしまた、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されています。
ちなみに「耳袋」とは、江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行の根岸鎮衛(または”やすもり”)が 、天明から文化にかけて30余年間に書きついだ随筆で「甲子夜話」とは、江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は 静山)により書かれた随筆集の事です。
今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜金剛山編5」のお話でした。